第355話 もえこのこと。

もえこが死んだ。
わたしの恋人の実家で飼われていた犬である。



(12歳)


3年前だろうか、わたしは無職のひとであった。
無職でチョーハツのひとであるわたしが恋人の実家に遊びにいったのは3年前であった。
無職でチョーハツで革のジャンパーを着たわたしをご家族はお弁当をチンした際に温もってしまった、
漬け物を見るような目で迎えてくださった。
もえこだけは違った。
尻尾をふり、鼻をならし、大きな声で「ワンっ!」と言いながら迎えてくれた。
もえこを連れて近所の川にいった。
雪が降っていた。
雪のふる龍神の河原でわたしはもえことたわむれていた。
木を放り投げる、もえこが走る、
もえこがくわえてきた木を取り上げ、
もえこを褒める。
なんだか飽きてきたので、
わたしは川に向かって木を放り投げた。
もえこに躊躇はなかった。
川から上がってきたもえこの鼻が少し凍っていた。

夏がきた。
もえこが臭い。
なんだろう、何かを威嚇しているのだろうか、
ただただ臭い。
わたしはもえこを龍神の川に連れていき、
もえこの身体をごしごし洗った。
なんだか楽しくなってきてしまったもえこがわたしの腕を噛む。
わたしはもえこの頭を強めの力ではたいた。
もえこは鼻をならして喜んでいた。
一時間後、フローラルもえこの完成である。
とってもいいにおい。
なんだか照れくさそうにもえこがわたしの腕を噛む。
わたしは力いっぱいもえこの頭をはたいた。
やはりもえこは嬉しそうに小さく鼻をならした。
翌朝もえこに会いにいったわたしは、目を、いや鼻を疑った。
もえこはもう臭かった。
わたしは今一度、もえこの頭をはたくのであった。

そして、何度目かの春がきた。
もえこがおかしな咳をしていた。
なんだか元気もない。
どうせ、カエルか何かでも呑み込んじまったんだろう、バカのもえ公のことなんだし、
なんて思っていた。

その日、もえこは大阪に帰るわたしたちを、ずっと見送っていた。
小さくなっていく車に尻尾を振り続けた。
そして、大きく「ワン」と言った。

三日後わたしがバイトから帰ると、恋人が玄関で泣いていた。
もえこが死んだ。
その夜、わたしも少し泣いた。

恋人が泣いている。
すれ違う犬を見ては泣いている。
すごくめんどくさい。
服を着たタイプの犬を見ても涙を流す。



いやいや、もえこは全裸のタイプの犬なのだし。
犬種が全く違うのだし。
犬っていうか、2割白熊なのだし。
商店街の洋服屋のヒョウの置物を指差し、
「あれ見てもクる感じ?」
と聞いてみた。
恋人はなんだかフルフル言っちゃいながら号泣していた。



(シャー!)

ヒョウなのだし。
シャーって。
ヒョウ、シャーって。

もえこは最後にわたしたちに「ワン」と言った。
ありがとうだったのだろうか。
それともサヨナラだったのだろうか。
多分「お腹すいた!」とかだったように思う。
「目がかゆい!」とか。
もえこ、ワンではわかりません。


(なに笑ってんだ)

ワン!